旧ミズノ淀屋橋店 探訪
旧ミズノ淀屋橋店は、大阪で7番目※1の高層ビルとして1927年に完成しました。創業者 水野利八(1884年~1970年)は、濃尾地震(1891年)で被災した水野家の復興の証として100尺のビルを建てるという目標を立て、1906年に水野兄弟商会を創業しました。しかしながら、「個人的な責務を果たして安心してはいけない。はるかに大きい社会的な責任(スポーツ産業の発展)が残っている」と自戒の意味を込め、敢えて98尺8寸のビルとしました。
※1 スポーツは陸から海から大空へ~水野利八物語~(1973年、ベースボール・マガジン社刊)より
おそらく、日本のスポーツメーカーでは初めてとなる店舗と本社の両機能を備えた複合自社ビルだったと思われます。しかも、7階と8階には食堂もありましたから、まさにお客さま本位の象徴でもある百貨店建築の影響を受けた建物になっています。
おそらく建設当時は、流行の最先端スポットだったと思われます。この時代の多くの店舗が町家のような二階建ての建物でした。1階が店舗でその奥を店主が自宅として使用し、2階は得意客向けの応接室や帳場といった事務スペースを備えるのが一般的でした。鉄筋コンクリート造なので屋上に行けるのも珍しかったでしょう。当時は天神祭も見えたでしょうから、従業員やお客さまがその景色や眺望を楽しんでいたと推察されます。
旧ミズノ淀屋橋店は水野利八の経営思想の象徴として、100年近くにわたりスポーツ文化の発展とともに歩んできましたが、淀屋橋駅西地区第一種市街地再開発事業に伴い、2021年6月30日に閉店。惜しまれつつも閉店した、旧ミズノ淀屋橋店を探訪してみましょう。
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塔屋の入口部分は大きな半円アーチが描かれ、その上に作られた窓の半円アーチが三連で配置されています。このようなアーチが連続する意匠は、典型的なロマネスクデザイン様式です。
屋上
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北側の階段は、外国映画で登場するような吹き抜けが存在し、その周囲を回るように階段が配置されています。これは廻り階段と呼ばれる様式で、階段を上り下りするお客さまに空間を楽しんでいただくためにこのような設計になっています。
北側
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建物南側は、建築後に増築されています。建物完成当時の南側外壁部分にあった窓は、鉄板を被せて埋められており、外壁部分も新たにコンクリートによって平らにならされたようです。
南側
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柱の数と梁の数、どちらも通常よりかなり狭い間隔で作られています。これは関東大震災直後に設計されたため、耐震性を慎重に考慮して設計したと考えられます。
柱・天井梁
1920年代の建築について
ミズノ淀屋橋店が建設された当時の鉄筋コンクリート造の建物は、コストを考慮はするものの、今と違って最優先事項ではありませんでした。なぜなら鉄筋コンクリート造の建物は100年、200年もの間、ずっとその場所に存在し続けるという思想のもとで設計されていましたから、コストや手間の掛かる手法を用いてでも意匠や美観を優先したのです。実際にヨーロッパには100年以上経過した鉄筋コンクリート造の建物が数多く現存していますから、その思想は正しかったといえますね。
位置
〒541-8538大阪府大阪市中央区北浜4-1-23
設計者
岡部顕則氏(徳島工業学校卒業)建築事例:大阪にあった京町ビルや帝塚山学院、その他角座や有楽座など
建築工事者
竹中工務店
竣工
1927年
敷地面積
272坪(約899㎡)
建坪
144坪(約476㎡)
延坪
1212坪(約4006㎡)
階数
地下1階 地上8階
- 監修 川島 智生
- 学術博士、一級建築士。 専門は日本近代建築史、小学校建築史で博士号を取得。